自分に嘘をつかない

内面を言葉で表現する

ぼく・あなた・みんな

今日、大学の講義で面白いことを聞いた。

 

教養系の授業で、外部からゲストを招聘して行われたのだが、

 

これがなかなかどうも面白い。

 

仮にこの方をA氏としよう。

 

A氏の主張はこうだ。

 

「いいですか、皆さん。芸術に大切なことは(ゲストの方は芸術畑出身だ)、I, You, Weを常に意識することです。日本語にすると、ぼく・あなた・みんな」

 

ほう、どういう意味だろう。

 

「芸術にはもちろん自分、考える主体であるぼくが必要です。そして個人個人のあなた。共同体としての、歴史としてのみんなも必要です。」

 

通時的・共時的の考えに似てるな。

 

あなたは今生きているひとりひとりで、みんなは歴史全体の文脈みたいなものか。

 

「多くの人は『俺は社会を変えたいんだ』と『ぼく・みんな』はあっても、『あなた』が足りなかったり、『○○さんたちのために!』と思いが詰まりすぎて『みんな』が欠けてたりするんです。」

 

やっぱりそうか。

 

「そしてこの考えは芸術だけでなく、広く一般に用いることのできる、人間の本質に近いものだと思います。」

 

 A氏の発言を、僕は頭のなかで反芻した。

 

 

 

 

f:id:country_gentleman:20190613231624j:plain

https://publicdomainq.net/jacques-louis-david-0000216から引用

 

 

 

 

そう言われてみれば、歴史上の偉人たちは皆、「ぼく・あなた・みんな」を意識しているように思える。

 

たとえばサルトルがそうではないか。

 

サルトルといえば、ボーヴォーワールとの関係が有名だ。

 

彼らは互いの関係を、当時珍しかった契約結婚で結んでいる。

 

通常の結婚でもよさそうなものだが、あえて契約結婚したところに、彼らなりの「ぼく・あなた」に対する真剣さを感じる。

 

また、サルトルは「アンガージュマン」の思想のもと、社会参画にも力をいれていた。

 

これは間違いなく、全体に対する考えを持っていたことを意味する。

 

サルトルだけではない。

 

大衆の反逆を著したオルテガもそうではなかっただろうか。

 

星の王子様のサン=テグジュペリはどうだ。

 

日本なら家康はどうだ。

 

例を挙げればきりがない。

 

偉人たちは皆、全体に対して深い洞察を持ち、目の前のあなたのことを考え、自分にできる最大限のことをやっていたように思える。

 

少なくとも、「あなた」に認められたから時代を築き、「みんな」に対して貢献したからこそ偉人として語り継がれていることには異論がないだろう。

 

さすが偉人。

 

ふと、僕はどうだろうか、と思った。

 

自分のことばかり頭にあって、「みんな」どころか「あなた」すら考えから抜けていた気がする。

 

もしくは、「みんな」が見えないことをいいことに、「みんな」のことを考えているんだと思い込み、「あなた」をないがしろにしていたのかもしれない。

 

そうすることで、「ぼく」を維持していたのかもしれない。

 

日々、教えられることがたくさん。

 

 

 

 

 

 

 ps.

私は普段偉そうにしているからその点では私も偉人である。