中動態について
最近、授業で中動態の話を聞いた。
なんでも私たちは能動態と受動態しかないと思い込んでいるが、
ギリシャ時代なんかは能動と受動の間にある中動態という態があったという。
中動態とは、自分は特にそうしたいと思ってるわけじゃないけど、そういう状況に追い込まれているとか、そうせざるを得ないとか、勝手にそういう風に動いていたとか、そういうものだと聞いた。
私なりに中動態を解釈してみたら以下のようになった。
・中動態とは・・・現象的には能動態、精神的には受動態
よく中動態のたとえとして「カツアゲされてお金を渡すときは中動態です」なんて言われるのだが、
カツアゲはあまりにレアケースすぎるので他の例えを考えてみた。
・空気を読むとき
・同調圧力でなんとなく周りと同じようにするとき
・列に並んで進むとき
・中学から高校、大学へなんとなく進学するとき
・特に意味もなくスマホを見てしまうとき
これらもすべて中動態じゃなかろうか。
こう考えてみると中動態の姿が見えてきそうだ。
性質としては、したいと思ってないけど行動になっていることか。
嫌だなとか息苦しいとかは大体が中動態でいることが原因なんじゃないだろうか。
ちなみに私は街を歩くのがあまり得意ではない。
どこか息苦しいのだ。
どうして息苦しいか考えてみたのだが、
街にあるものにはどれも目的があるからではないかと思った。
歩行者が歩くための道
自転車が通るための道
タバコを吸う場所
階段を降りる場所
止まる場所、買う場所、食べる場所、待つ場所・・・
どれもが意味ある目的を持って作られており、そこで行うことは予め誰かに決められている。
自分がそうしたいからしているのではなくて、そうさせられているだけなので自分の意思とそぐわずに息苦しいのかもしれない。
街は中動態で溢れている。合わない人には合わないのだろう。
「意味を求めて 無意味なものがない それは空洞」
どこまでが中動なのだろう。
俺がやったと思っていることも含めて、どこまでが俺の意思なのだろうか。
ーー
今日の論文
さて、今日も論文を読もう。
タイトル: On nonrecoverable deletion in syntax
本文: 0文字
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今日も昨日に引き続き0文字の論文だ。
単語を回復不可能になるまで削除したので、何も残らなかったということらしい。
私もそろそろ論文を書かなければいけないのだが、彼らがとても羨ましく思える。
ただ真似をすれば学位がもらえないことは確定だろう。