自分に嘘をつかない

内面を言葉で表現する

方向「楽しい?」

 

人には向き不向きがあると思う。

 

自分の向きは何か。

 

また不向きは何か。

 

そんなことをたまに考えたりする。

 

不向きは分かる。

 

周りと比べてすぐに分かる。

 

問題は向きだ。

 

自分の向きをどう判断すればいいのだろう。

 

周りと比べて優れてたからって、勝負するのはそこじゃない。

 

それならと、実戦をやってみたところで、積み重ねてきた人たちに勝てるわけがないのだから、現段階では判断できない。

 

じゃあ、どうするのだろう?

 

とりあえず、決めるまではいかなくてもスクリーニングで考えてみよう。

 

そうなれば、周りと比べて優れていることは一つの判断材料になる。

 

だが周りと比べられるものって、数ある選択肢の中でもほんの一部ではないだろうか?

 

そもそも比べられる時点で選択肢がだいぶ狭まっているはず。

 

なぜなら比べるには自分の行動と身近な人間の行動、この二つが同じ頃に行われる必要があるからだ。

 

過去や遠くの人と比べれば同じ頃でなくていい、という意見もあるだろう。

 

だが人間そこまで利口だろうか。私は肌感覚で実感したことでないとなかなか比べることができない。

 

数字で表せるものなら?

 

確かに陸上競技などは数字で表せるので、過去や遠くの人とも比較できる。

 

しかし数字で表せるものもやはり限られている。

 

数字で比較しようとする時点で、選択肢が狭まっているはずだ。

 

ではどうするか。

 

...。

 

もしかしてこれは、問題の方がおかしいんじゃないだろうか。

 

私は答えのなかなか出せない問題は、そもそも正しい問題かどうかを疑うところがある。

 

問題にも、答えられる問題と答えられない問題があるからだ。

 

たとえば、「青いリンゴは赤いリンゴです。青いリンゴの色は何色でしょうか?」という問題があったとする。

 

これは答えられない。答えたところで万人が納得する答えは得られないだろ。

 

なぜならそもそも問題文がおかしいからだ。青いリンゴは赤いリンゴですという意味がわからない。

 

それと同じで、今回は「向き不向きの見極め方」を考えているが、果たして向き不向きとは何か。

 

それは事前に分かるものなのか。判断できるものなのか。こういった疑問が解決されていない。

 

だから、向き不向きを見極めるなんてこと自体がちゃんちゃらおかしいわけである。

 

そしてさらに言えば、なぜ向き不向きを見極めたいのかに言及するべきだろう。

 

おそらくこれは自分の能力を最大限に活かしたいという欲求からだろうが、ではなぜ能力を活かしたいと思うのだろうか。

 

すぐ思い浮かぶのは、能力を活かして社会に貢献すれば、自分にリターンが返ってくるからだ。

 

それは他者からの評価であったり自分自身への評価であったり、お金であったり。

 

ああ、要するに楽しく過ごしたいのだ。

 

皆から認められて、自分自身も認められて、お金で自由なことができて、毎日を楽しく過ごしたいのだ。

 

一言でまとめよう。

 

向き不向きを考えるのは、楽しく過ごしたいからである。

 

となれば、楽しく過ごせれば向き不向きを考える必要はなくなる。

 

向き不向きを考えたところで答えが出そうにないのだから、それならどうすれば楽しく過ごせるか考えた方がいいのではないだろうか。

 

今やっていることが向いているかどうか。それは分からない。

 

だが、今やっていることの方向性が合っているかどうかを考える方法はとてもシンプルで、「楽しい」かどうかだ。

 

俺は今どうだろう。

 

どうなんだろう。