自分に嘘をつかない

内面を言葉で表現する

Re: 選択と集中 / 論語5 (16〜18篇)

 

名言が好きだ。

 

偉人の名言集を好んでよくみてた時期がある。

 

その中で「選択と集中」という言葉を目にした。

 

そのときは「なるほど!」と思った。

 

大事なことだな〜、と

 

そして今、あのときの自分は全く分かっていなかったことに気づく。

 

頭で分かってることと、感覚として分かることには、天と地ほどの差がある。

 

何をせず、何をするか。

 

時間には限りがあるということを強く思い知るたびに、この「選択と集中」の重みが増してくる。

 

 

俺は何をしない?

 

何をする?

 

俺は、

 

集中するべきことに、きちんと集中しているか

 

集中するべき時に、きちんと集中しているか

 

集中力を上げながら、やらないこととやることを考えながら、ちゃんと生活していこうと思う。

 

 

 

*

 

 

 

論語5

 

今日は16~18篇から。

 

気になったのはこの話 ↓

 

孔子曰わく、誠を富に以てせず、亦秖に異なれるを以てす。斉の景公、馬千駟有り。死するの日、民徳として称する無し。

伯夷・叔斉は首陽の下に餓う。民今に到るまで之を称す。其れ斯を之れ謂うか。

 

これは、お金のような富ではない、本当の富があるという話。

景公はお金持ちだったが、亡くなった時に誰も話題にしなかった。

伯夷・叔斉は餓死するほど貧乏だったが、兄弟ともに国のために尽くして権力争いもしなかったので、亡くなってからも尊敬されている。

 

なぜこの話が気になったか。

 

それは本音をいってしまえば、本当の富が何なのか、正直分からなかったから。

 

確かにこの話は「伯夷・叔斉すごい!」ってなる。

 

けれども、餓死したことを思うと、どうしてもそれが幸せだったとは思えない。

 

俺なら美味しいものを食べて楽しく過ごしたいと思ってしまう。

 

...。

 

難しい。

 

俺の考えが自分勝手で未熟だということは自覚している。

 

そして、自分以外のものをそこまで思いやれる、そういう人生を送れた伯夷・叔斉はものすごい幸せ者、この理屈もわかる。

 

ただやっぱり、どうしても心の底からは納得ができない。

 

「自己犠牲」なんじゃないかと思ってしまう部分がある。

 

日に日に痩せ細っていく姿を見て、例えば親は悲しまなかっただろうか?

 

恋人や友人、周りで助けてくれる人は心を痛めなかっただろうか?

 

伯夷・叔斉は多少周りに迷惑をかけてでも、

 

醜くなってでも生き抜くべきだったんじゃないかと思ってしまう。

 

難しいな