自分に嘘をつかない

内面を言葉で表現する

ブログを書く理由

 

なぜブログを書いているのか。

 

いくらか記事を書いたので今一度考えてみようと思う。

 

きっかけは下の記事に書いてある通りだ。

 

blog.xn--av-p73a5a7dp0fhvq21az965axo3ay17e23za.xyz

youtubeを観ていたらショールームの前田さん(石田さとみと付き合った人!)の動画に行き着いた。

 

前田さんの語る、面倒なことはコスパがいいという考えに心を打たれた

 

面倒なことに慣れるには、面倒なことをし続ける必要があるということを聞いて

 

じゃあ、ブログを1年間毎日欠かさず投稿しよう。と決めたのだ。

 

これはその場の瞬間的な意思決定である。

 

だが、私は前田さんの動画を見る1ヶ月ほど前からブログ自体は始めていた。

 

ろくに投稿らしい投稿はしていなかったがブログ自体に興味はあった。

 

私はなぜブログに興味があり、書こうと思ったのだろう。

 

先に断っておきますが、殴り書きスタイルなので文章は冗長になっています。ご了承ください。

 

 

 

まず理由として考えられるのは、表現としての文字に興味があるのではないか。

 

たとえば小説家は、文字を通して物語を作り、作家(自分)のオリジナリティを表現する。

 

他にも絵や音楽、演技やスポーツなど、様々な表現があるが、私はこれらの才能はないと思う。

 

絵は小さい頃に漫画を書いていたが、登場人物はいつも前を向いていたし、

 

音楽は高校時代にバンド演奏をしたが、技術は酷いものであったし、

 

演技はそもそも人前で何かするのが恥ずかしいし、

 

スポーツはボクシングをかじったが、到底これは無理だと感じたし、

 

それぞれうまくいかなかった経験がある。

 

しかも、一生やりたいという熱意もなく、それぞれ練習する時間、期間も大したことはなかった

 

なので、絵・音楽・演技・スポーツは観て楽しむものにしようと思ったのだ。

 

では文字はどうか?

 

これに関しては、ほんの少し、周りより作文や小論文が得意だったということがある。

 

特に国語は、中学時代に勉強せずとも優秀な友達をテストで上回ったことがあるので、肯定感がそこそこある。

 

とは言ってもそこそこしかない。

 

これでいける、という確信などあるものか。

 

文字を選んだ最大の要因は、書いていて苦を感じることがほとんどないことだ。

 

何かになるためには、長く長く、毎日時間をかけてやっていくしかない

 

そうする中で、毎日のそれが苦であるよりは、楽しい方が続きやすいだろう。

 

だから私は文字を選んだ。

 

面倒に思う日もたまにあるが、概ね、充実感のようなものの方が強い。

 

ぐちぐちと考えて、ひたすら闇の中を進むという、書くという行為の性質が、私の性格とフィットしていたのだろう。

 

もちろん書く行為の中でも苦痛に感じることはある。

 

 

このブログでは実験的に色々なことに手を出しているのだが、

 

その中でわかったことの一つに

 

分析系は得意でないということがある。

 

特にファクトチェックのいるようなものは筆が進まない。きっちりかっちり、こうでなければいけない、これ以外はない、というものを書くのは苦手なのだ。しかも完成度も高くない。それより、自由に、こう思う、こうだったらいい、こうじゃないか、おそらくこういうことなんだ、そういうものを書いたほうが何倍もの充実感がある。

自由に書けることが好きなのかもしれない。

 

あと、表現としての文字が好きなのは、頭のどこかで、文字こそ思考の根本である、と考えているからかもしれない。

 

そして思考を追求することこそ、人間理解への道なのではないか。

 

何かを考えるとき、そこには必ず言葉が介在している。

 

ということは、人間は考え続ける限り、言葉、つまり文字から逃れることはできない。

 

野生に戻るわけにもいかないし、思考を放棄することはできない。

 

つまり、人間を知るためには言葉、文字は避けて通れないのである。

 

逆に言えば、文字に携わっていれば、人間に対する洞察のようなもの、これが芽生えてくるのではないか、そういう期待を持っている。

 

ここら辺が表現として文字への興味だろう。

 

他に何かあるだろうか。

 

なぜブログか。

 

思いついたのは、表現と被るところもあるが、アウトプットの機会ということが挙げられる。

 

日頃インプットをする機会は多いが、アウトプットをすることは少ない。

 

私は行動することで得られる体験知を重視しているので、もちろんアウトプットは重視している。

 

そのため、アウトプットをする場としていいと思ったのだろう。

 

手軽で、誰にでもできる、しかも毎日、好きなだけ。

 

ブログはとてもアウトプットをしやすい。

 

ブログを書いている理由としては、大体こんなところだと思う。

 

もしかしたらより深いところで繋がりがあるのかもしれないし、

 

逆に理由なんて実は全くないのかもしれない。

 

それでも、考えることを私は続けたい

 

宮沢賢治はこう言った。

 

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

引用:https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html

 

世界はぜんたいが幸福になっただろうか?

いや、まだまだだ。

 

だったらどうする

 

変化し続けるしかないのではないか

 

私はこの詩を思い出すとき、よくルービックキューブを連想するのだが

 

今はまだ1面が揃っただけに過ぎない。

 

科学の発展で食べ物と住むところは確保された。

 

幸福には確実に近づいているだろう。

 

だが、他の面はどうだ?

 

まだまだバラバラだ。

 

だから、ぜんたいが揃うまで、キューブを回し続けなければならない。

 

時には、綺麗に整った一面を崩さなければならないこともあるだろう

 

一面揃ったのだからいいじゃないか、これで完成としよう。

 

そう思う声もあるだろう

 

だが、それではいけない

 

私はそういう態度を取ることにしている。

 

ぜんたい、なんて大きなことを言ったが、私個人ができることなど限られている

 

考え続けたところでぜんたいから見たら、何も変わっていないかもしれない

 

それでも考え続ける

 

ほんの少し、ほんの少しのほんの少し、そのまた少し、その少しのまた少し、

 

0ならいくら足したところで終わりはこないが、ほんの少しでも、ないに等しくても0でないのなら

 

それだけで私はやってやったと思える。

 

0でないのなら希望を持つことができる。

 

だから私は考え続ける

 

考え続けるにしても、方向を間違いたくはない

 

だから自分に嘘をつかない

 

自分が自分に味方して、これでいいんだという方向へ進むために

 

自分にだけは嘘をつかずに進んでいきたいと思う。

 

それがカメの一歩だとしても