俺は山口瞳を読み続けるか?
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昨日、「願望」というタイトルでプラスになりたいと書いた。
午前の間は仕事をし、午後の間は楽しいと思えることだけやろうと考えた。
楽しいことをするのは意外にも難しく、思いついたのは筋トレと美味しいご飯を食べることだけだった。
夜になる。
ベッドに入り、少し本を読んだ。
愛読しているのは山口瞳の本だ。
山口瞳の本はすこしネガティブな部分がある。
それは山口瞳が綺麗事だけではなく、事実とまっすぐ向き合おうとするからだと思う。
読んだあとあれこれ思考を巡らせた。
頭に浮かぶのはあまりプラスのことではなかった。
どちらかというと、人間って酷い部分もあるよな、というようなことだった。
気持ちを切り替えようと、楽しいことを考えてから寝ようと思った。
だが、結局最後までプラスのことはあまり考えられなかった。
今日起きてすぐにこのことを思い返した。
直感で、プラスでないことがひっきりなしに頭に浮かぶのはよくない兆候だと思った。
もしかして山口瞳に引っ張られているのかもしれないとも思った。
そうだとすると、俺は山口瞳を読み続けていいのか?
まだ読んではいないのだが、山口瞳は肉親までありのままで見つめようとしたらしい。
血族という本がそれにあたる。
それは当然いい面だけではなく、人間の欲の面や不気味な面も公にするということだ。
引っ張られない自信がない。
とはいえ、じゃあ俺はいい面だけをみて生きていくのかと言われれば、迷うところがある。
いい面だけ見つめるっていうのは、瞬間的な逃避のように感じられるからだ。
それは良くあろうとして良くするのではなく、悪くなりたくなくて良くすることと同じである。
つまりwantとmustの考えでいうと、逃避はmustになるのであまりいいことだとは思えない。
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ありのまま見つめようとするか、いい面だけ見つめるか、俺の中で拮抗していた。
*
朝の散歩中、ずっとこのことを考えていた。
結局思ったのは、山口瞳は読み続けようということだった。
たしかに読んでいるとプラスでない考えになってしまうことはある。
だが山口瞳の言葉は、捻くれているとかヘイトとかそういうのとはまた違う。
山口瞳の言葉はありのまま見つめようとした結果であり、受け止めて然るべきだと思ったし、俺自身もそういう人間でありたいと思った。
とはいえ、やはりプラスでありたいと思う人間にとって、プラスでない考えになることは避けたいことであるのもまた事実なので、この部分はきっぱり割り切ることで手を打った。
どう割り切るかというと、読むタイミングをコントロールすることにした。
つまり、休憩中とか、ふと息を抜きたいときとか、過去を振り返ったり、立ち止まったり、何かしらプラスの紐を緩めたいときに、山口瞳の本を読むことに決めたのだ。
逆にいえば、そのタイミング以外では読まないことにした。
安易に寝る前などに読んだりすると、どうも引っ張られてプラスでいられないからだ。
ここまで書いて、山口瞳の言葉がいかに強く、影響力を持っているかをしみじみと思わされた。
同時に、やはりすごい人だなぁとも。
読まないなんてもったいないのだ。
だが強すぎるあまり、読むタイミングは考える。それはプラスの紐を緩めたいとき。
プラスの紐を緩めたいときにだけ、俺は山口瞳を読む。