自分に嘘をつかない

内面を言葉で表現する

岡田斗司夫のカリスマ論を読んで

 

ついさっき、岡田斗司夫の「カリスマ論」という本を読み終えた。

 

私は本を読むとき、まず出版日を確認する。

 

いつ発信された情報か確かめるためだ。

 

カリスマ論は2015/11出版だったので(現在2019/12)、約4年前の本ということになる。

 

今回は主題が「カリスマ」だったので、4年で本質が変わるものではないだろうと思い、とりあえずそう疑わずに読んでみた。

 

本書ではカリスマを三種に分けていた。

 

第一種はテレビでよく聞くカリスマ。カリスマ美容師だとか。いわゆる称号としてのカリスマのことだ。

 

第二種は他人の人生に強い影響を与えるが、その範囲が狭い人を指す。例えば教師。生徒に強い影響を与える名物教師はどこの学校にもいるものだが、その影響を与える範囲は学内の生徒と範囲が狭い。

 

第三種は他人の人生に強い影響を与えて、その範囲が広い人を指していた。例えばホリエモン。

 

カリスマ論で取り上げるカリスマは、第三種に限定している。

 

ちなみに、カリスマに近い存在として教祖やメンター、マスターやグル、それにトレーナーと言った存在を挙げており、それぞれ開放的か閉鎖的等で分類していたが、正直この分析はいまいちだった。

 

まず、日本人はマスターやグルと言った言葉に馴染みがないので、著者と読者に認識のずれがあるように思った。

 

そこを定義せずに話を進めていったので、いくら分類の軸を説明されても納得できないのだと思う。

 

また、本書ではパリピやマイルドヤンキー、パンピーという言葉も出てくるのだが、これも上に同じである。

 

正直な感想として、言葉の使い方や捉え方に違和感があった。

 

例えていうなら、おじさんがSNSで若者と同じことをしだしたときの感じ。

 

どこまでいっても違和感しかない。

 

ここから得られる教訓は、年配者が新しい言葉を使う場合は、事前に言葉の定義をしてから使うべきだということだ。

 

そうでなければ認識のずれがどうしても起こってしまい、お互いに理解しあえなくなる。

 

とはいえ、やはり年の功というか、いや、職業柄というべきか、社会に対する分析は面白かった。

 

それは、世界は「評価経済社会」に向かっているという主張。

 

これまでは貨幣経済社会であり、人々はつい貨幣経済的な考えをしてしまっているという。

 

お金がこれだけあればこれができる、とか、お金をこれだけ出したからこれをしてもらえる、とか。

 

だが社会は徐々に成熟・変化し、貨幣経済的な考えでは成長しづらくなる。

 

そこで、個々人がそれぞれ他人を評価する評価経済社会に移り変わっていると。

 

確かに、貨幣の持つ力が弱まってきている実感はある。

 

それは男女の関係を見ればわかりやすい。

 

今、お金持ちがモテるかというとそこまででもない。

 

十分モテるのだが、なんというか、思ったより影響力がない。

 

それよりも顔がよく知られている人、例えばyoutuberのような人の方が抜群にモテる。

 

それに影響力が強い。

 

そうか、影響力か。貨幣の持つ力のどこが弱まっているかというと、影響力だ。

 

人は貨幣を経由したものでは影響されづらくなってきている。

 

昭和の時代は制作費いくらの映画がヒットすることがあったみたいだが、今はそんな売り文句じゃ誰も興味を示さない。

 

また、メディアの仕立てた芸能人にも目を向けなくなってきている。

 

影響力か。

 

評価経済社会における、一番の資本は影響力だ。

 

あ、あとそれと自分がカリスマ向きかどうかはよく考えろという話も面白かった。

 

カリスマの元に人は大勢来るが、去って行く者も多い。

 

他人と濃く狭く付き合いたい人にカリスマは難しいという。

 

その場合は教祖やメンターといった関係を選んだ方が、影響を与える方にしても与えられる方にしても成長しやすいよということだった。

 

私はどうだろうか?

 

薄く広くよりも、どちらかというと濃く狭いという方かもしれない。

 

それなら、何か学ぼうとして人に師事してもらうときはカリスマ型の人より、メンター系の人を選んだ方が良さそうだな。

 

とはいえ、教える側になったときはカリスマ型の方が性に合っている。

 

なんというか、卑怯なように聞こえるかもしれないが、濃く狭くで教えていると、その人に対する影響度が強すぎてこちらにまで責任が発生してくるように思えるのだ。

 

平たくいうと。教えてもうまく行かなかったら...という不安があるということ。

 

その人とは関係性ができてしまっているので、うまくいかない姿を見るとこちらも悲しくなってくるし、ろくなことがないように思う。

 

だから、教えてもらうときはメンター型。

 

教えるときはカリスマ型。

 

これでいこう。

 

と、ここまで書いていてなんとなく、自分は責任を背負いたくないのだと思った。

 

責任はマイナスなイメージが先行されがちだが、やることが決まっているという点では合う人もいる。

 

俺は、やることが決まっているのは嫌なんだな。

 

んー、やっぱりいい方向としては、しっかりメンターの元で自力をつけて、カリスマになることかな。

 

じゃあ、メンター誰にしよう。

 

というか、フィールドどうしよう。

 

プログラミングを毎日勉強してるから、ネット系だろうな。

 

それにネットとカリスマは相性がいいし。

 

うーん、うーん。どれにしようかな。とか考えてる時間が楽しいな。

 

それではまた明日。