自分に嘘をつかない

内面を言葉で表現する

「虚無回廊」小松左京 100分で名著

 

100分で名著、小松左京さんの回を観た。

 

四週に渡り一冊、もしくは各週一冊ずつ本を紹介してくれる番組だ。

 

小松さんは各週一冊ずつの方で、以下の順で紹介された。

 

「地には平和を」1963

「日本沈没」1973

「ゴルディアスの結び目」1977

「虚無回廊」1987

(数字は出版年。Google検索でトップに出てきたものを信用した結果なので正確でない可能性あり)

 

解説を聞く限りでは、どうも前二冊と後ろ二冊で性質が異なるように思えた。

 

前二冊は自身の戦争体験が色濃く反映されている。

 

そしてそれを再解釈する、いわば内省に近い類だと感じた。

 

対して、後ろ二冊は人間の可能性を追求する、人間全体について考えているような気がした。

 

「ゴルディアスの結び目」と「虚無回廊」、どちらも人間の抱える業のようなものが宇宙と繋がっている。

 

対象が個人から人間全体に一般化された、といってもいいかもしれない。

 

どちらにせよ、対象のスケールが大きくなったことは確かだ。

 

また、四冊のうち前二冊と後ろ二冊で、思考の方向が過去と未来で対比になっているようにも感じた。

 

前者は内省的なもの、つまり過去を振り返って思考している。

 

後者は全体的な視点で、人間全体、いや人間含むもっと大きな意思を思考しようとしたように感じる。

 

おそらく、小松左京さんは戦争体験を含めた過去を、前者二冊と後者二冊の間に乗り越えられたのではないかと思う。

 

そして前を向き、その後に四冊目のタイトルにも表れている「虚無」と向き合うことになったということだ。

 

「虚無」をどう解釈するか、非常に気になったが、「虚無回廊」はどうやら未完ということらしい。

 

話を聞く限り、小松左京さんというのはとんでもない人だというのは私でもわかった。

 

伊集院に言わせて、「小松左京は一つのジャンル」とまで言わしめたほどだ。

 

その小松左京さんでも扱いきれない「虚無」とは一体なんなのか。

 

いや、虚無はなんとなくわかる。

 

私も無意味さというか、ふとした時にどうしようもない虚しさみたいなものを感じる。

 

だが、その先だ。

 

虚無がこの世を支配しているのか?

 

虚無を超えた先はないのか?

 

ここの部分に関心がある。

 

この問題を考えるとき、私はなぜかサルトルの嘔吐と投機の話、そして釈迦(仏教)の解脱の話を思い出す。

 

虚無というのは、おそらく人間は超克している。

 

私はまだ理解できない、いや体感できない、とにかく分からないのではあるが、過去に分かった人がいる、ということはなんとなく分かる。

 

いや、なんとなくではなく、ぼんやりとしていて掴みどころがないのだけれども、それに関しては確信のようなものがある。

 

SFにあまり興味はなかったのだが、小松左京さんの回を観ているうちにSFに対する見方が変わり興味が湧いてきた。

 

すごい人だなあ、と改めて思う。

 

「ゴルディアスの結び目」「虚無回廊」

 

多分この先、人生のどこかで交わると思う。